私は千葉県佐原の香取神宮より山奥の山田村で育った。

先祖は名主を務めたこともある旧家で代々「勘左衛門」を名乗っていた。

従って、私は「勘左衛門」の子孫なのである!

子供の頃に、「カラスカンザエモン」と囃されて嫌な思いをしたが

昔の子どもは漱石を読んでいたのだろうか?

私をいじめた子供たちは猫だったのだろうか?

吾輩は猫である              夏目漱石

最後に垣巡りについて一言する。
主人の庭は竹垣をもって四角にしきられている。椽側(えんがわ)と平行している一片は八九間もあろう。左右は双方共四間に過ぎん。
今吾輩の云った垣巡りと云う運動はこの垣の上を落ちないように一周するのである。これはやり損う事もままあるが、首尾よく行くとお慰になる。
ことに所々に根を焼いた丸太が立っているから、ちょっと休息に便宜がある。今日は出来がよかったので朝から昼までに三返やって見たが、やるたびにうまくなる。うまくなる度に面白くなる。
とうとう四返繰り返したが、四返目に半分ほど巡りかけたら、隣の屋根から烏が三羽飛んで来て、一間ばかり向うに列を正してとまった。これは推参な奴だ。人の運動の妨をする、ことにどこの烏だか籍もない分在で、人の塀へとまるという法があるもんかと思ったから、通るんだおい除きたまえと声をかけた。
真先の烏はこっちを見てにやにや笑っている。次のは主人の庭を眺めている。三羽目は嘴を垣根の竹で拭いている。何か食って来たに違ない。吾輩は返答を待つために、彼等に三分間の猶予を与えて、垣の上に立っていた。
烏は通称を
勘左衛門と云うそうだが、なるほど勘左衛門だ。吾輩がいくら待ってても挨拶もしなければ、飛びもしない。吾輩は仕方がないから、そろそろ歩き出した。すると真先の勘左衛門がちょいと羽を広げた。やっと吾輩の威光に恐れて逃げるなと思ったら、右向から左向に姿勢をかえただけである。
この野郎! 地面の上ならその分に捨ておくのではないが、いかんせん、たださえ骨の折れる道中に、
勘左衛門などを相手にしている余裕がない。といってまた立留まって三羽が立ち退くのを待つのもいやだ。第一そう待っていては足がつづかない。先方は羽根のある身分であるから、こんな所へはとまりつけている。従って気に入ればいつまでも逗留するだろう。
こっちはこれで四返目だたださえ大分労れている。いわんや綱渡りにも劣らざる芸当兼運動をやるのだ。何等の障害物がなくてさえ落ちんとは保証が出来んのに、こんな黒装束が、三個も前途を遮っては容易ならざる不都合だ。いよいよとなれば自ら運動を中止して垣根を下りるより仕方がない。
面倒だから、いっそさよう仕ろうか、敵は大勢の事ではあるし、ことにはあまりこの辺には見馴れぬ人体である。口嘴が乙に尖がって何だか天狗の啓し子のようだ。どうせ質のいい奴でないには極っている。退却が安全だろう、あまり深入りをして万一落ちでもしたらなおさら恥辱だ。と思っていると左向をした烏が阿呆と云った。次のも真似をして阿呆と云った。最後の奴は御鄭寧にも阿呆阿呆と二声叫んだ。
いかに温厚なる吾輩でもこれは看過出来ない。第一自己の邸内で烏輩に侮辱されたとあっては、吾輩の名前にかかわる。名前はまだないから係わりようがなかろうと云うなら体面に係わる。決して退却は出来ない。諺にも烏合の衆と云うから三羽だって存外弱いかも知れない。進めるだけ進めと度胸を据えて、のそのそ歩き出す。烏は知らん顔をして何か御互に話をしている様子だ。
いよいよ肝癪に障る。垣根の幅がもう五六寸もあったらひどい目に合せてやるんだが、残念な事にはいくら怒っても、のそのそとしかあるかれない。ようやくの事先鋒を去る事約五六寸の距離まで来てもう一息だと思うと、
勘左衛門は申し合せたように、いきなり羽搏をして一二尺飛び上がった。その風が突然余の顔を吹いた時、はっと思ったら、つい踏み外ずして、すとんと落ちた。これはしくじったと垣根の下から見上げると、三羽共元の所にとまって上から嘴を揃えて吾輩の顔を見下している。図太い奴だ。睨めつけてやったが一向利かない。背を丸くして、少々唸ったが、ますます駄目だ。俗人に霊妙なる象徴詩がわからぬごとく、吾輩が彼等に向って示す怒りの記号も何等の反応を呈出しない。
考えて見ると無理のないところだ。吾輩は今まで彼等を猫として取り扱っていた。それが悪るい。猫ならこのくらいやればたしかに応えるのだが生憎相手は烏だ。烏の勘公とあって見れば致し方がない。実業家が主人苦沙弥先生を圧倒しようとあせるごとく、西行に銀製の吾輩を進呈するがごとく、西郷隆盛君の銅像に勘公が糞をひるようなものである。機を見るに敏なる吾輩はとうてい駄目と見て取ったから、奇麗さっぱりと椽側へ引き上げた。

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